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- 過激派(かげきは)とは、自己もしくは自己の属する集団の主義主張を貫くためには、過激な手段・違法な手法も厭わないとする行動様式のグループを指す。 英語表記はRadicalistなので、「急進派」と同義とも言えるが、一般的に「過激派」と表記した場合は、目的のためには暴力行為や違法行為も否定しない民主主義の敵といった批判的ニュアンスで使われることが多い。そのため圧政を敷く政権側が反対派に「過激派」のレッテルを貼ることもある。 辞書的意味では、ある集団の中で激しい主張をするグループを指すので、理屈的には、いかなる思想・政治・宗教集団であろうと、また或いは趣味的な集団も含めて、主義主張の存在するところに全て、過激派は存在し得る。 現在の日本において、ネットキャッシング なしに「過激派」というときは、1960年代後半から1970年代初頭を中心に勃興した、反日共系の急進的・戦闘的な新左翼の諸党派をさす。この意味では「極左暴力集団」の語も使われる。極左暴力集団の語は1970年代の警察白書にすでに見えるが、民間に広く普及させたのは日本共産党だといわれる[要出典]。 日本國憲法下の日本では結社の自由が保証されているため、過激派であっても、結社そのものの解散を強制された例はない。ただし、一般の政治活動を行う場合も、直接政治団体としての届出は行わず、適当な関連団体を用意して、その団体として行う場合が多い(中核派における都政を革新する会、日本青年社が関与する北朝鮮に拉致された日本人を救う会いばらき・同新潟など右翼標榜暴力団)。これは、偽装サークルと同様の意味もあるが、政治団体として届け出た場合、政治活動について一定の権利が保障される反面、政治資金規正法に基づき、収支などを政府に届け出る義務が生まれるからである。 また、直接政治団体としての届出を行い、穏健路線への転向を図るケースもある(その際、団体名の改称を行うことが多い)。しかし、警察(公安警察)においては、以前に過激派としての活動を行っていた団体に対しては、その後そうした活動を取りやめたとしても、過激派として監視を続けるのが一般的である。 国際的には、当初は仕事 派とされた組織が、長い年月の間に穏健化または社会的に認知されるようになった事例も多い。その結果、合法な政党・政治団体として議会に議席を占め、ついには政権を獲得した事例もある。南アフリカ共和国で、白人政権のアパルトヘイトに反対した、アフリカ民族会議が代表例。 先進国の学生運動の中から登場した過激派としては、第二次世界大戦期の 日独伊三国同盟の歴史的影響もあるのか、過激派版の日独伊三国同盟のごとく日本赤軍、ドイツ赤軍、赤い旅団(イタリア)がある。他にアメリカの共生解放軍も有名。 近年、学生や労働者の政治離れから後継者難、高齢化が指摘されている。 なお、大正後期の日本では、ロシア社会民主労働党の多数派(ボルシェビキ)が過激派と訳されていた。当時、大川周明は「20世紀、英米に対抗し得るのはボルシェビキとイスラームである」と論じたが、実際に、左翼過激派の衰退とクロスするがごとくイスラーム過激派が登場して来ている。 山形県酒田市出身。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。「特許植民会社制度の研究」で法学博士(1926年取得)。東亜経済調査局・満鉄調査部に履歴書 の後、法政大学教授大陸部(専門部)部長を経て拓殖大学教授。 後にともに活動する北一輝らと同様に、平民新聞の読者であった。 荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。 五高時代には、栗野事件で活躍した。 インドの独立運動を支援。ヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなどした他、インド独立運動に関わる(『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年))を執筆するなどして、インドの現状を日本人に知らしむるべく尽力した。 亜細亜主義の立場に立ち、研究や人的交流、人材育成につとめる。執筆活動としては、亜細亜の各地域に於ける独立運動や欧米列強の動向に関して『復興亜細亜の諸問題』(1922年)、また、亜細亜における英雄(アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード、ケマル・アタチュルク、レザー・パフラヴィーら)を日本人に知らしむるべく彼等の評伝をまとめた『亜細亜建設者』(1941年)を著すなどした。 日本精神復興を唱え、独自の視点で代表的日本人(佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠ら)のオンラインゲーム まとめた『日本精神研究』(1924年)を執筆、更に日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。同書は大ベストセラーとなるも、内容に、当時賊徒として批判の対象であった北条義時、泰時や足利尊氏・直義兄弟を称賛するなど不敬の箇所ありとして多方面よりの攻撃に晒され、改訂を余儀なくせられる。 これらの本の内容からも知れるように、大川の歴史観は、いわゆる皇国史観のそれではなかった。 大正・昭和期に、北一輝、満川亀太郎らと親交があり、猶存社、行地社、神武会を結成。三月事件・十月事件にも関与し、五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受け服役。 ルドルフ・シュタイナーの社会三層化論を日本に紹介した人物でもある(「三重国家論」として翻訳)。 満州事変に際しては、在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から、満州国の建国を支持し「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」とした(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。 北守南進を主張していたが、それはあくまでも「日中連携」を不可欠のものとしており、日中間の戦争を望むものではなかった。なお、日中戦争が勃発した当時、大川は獄中にあった。 対米戦争について、大川は「最後の瞬間までこの戦争を望まず、1940年に、日本がもっと準備を整える時まで、戦争を引き延ばそうと努力した」(『国際検察局尋問調書』第23巻)のであって、巷間言われるような、大川が無謀な対米戦争に日本をし向けた、というイメージは適切なものではない。 太平洋戦争終戦後、A級戦犯として起訴される。東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人だった。 大川は水色のパジャマを着、素足に下駄を履いて東京裁判に出廷した。休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がする程はたいたり(軍人は坊主頭)、「インダー、コメンジー!(「Inder kommen Sie! 独訳:インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア、コメディ!(「It's a comedy! 英訳:これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ、シンク」と奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。 翌日の法廷で、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した(この時下記のように脳梅毒に罹っていたためである)。 大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、梅毒による精神障害と診断された。のち精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、松沢病院に入院継続させられた。入院中、以前より念願であったコーラン全文の翻訳を完成する。なお東京裁判終了後、まもなくして松沢病院を退院した。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物である。 その後は、「瑞穂の国」を築く為の農村復興運動に取り組んだ。 大川は、東京裁判が始まった時から、「すべて茶番なんだ、こんなもの裁判じゃない」と周囲に漏らしていたなどといわれ、現在でも詐病説が絶えない。 大川の身長(178cm)は、東京裁判の全被告の中では飛び抜けて高かった。 ちなみに、のちにイスラーム研究者となる井筒俊彦に、精神的にも物質的にも援助をしていたのが、大川周明だった。 『大川周明関係文書』柳澤一二宛て書簡(昭和30年4月27日)に云う、「平泉澄博士は、当代の学者中、生(周明)が先生と敬ひて師事する唯一人」とあり、年下の国史学者平泉を評価していたと云う。大川の墓銘は、平泉が書いている。 「学者としては血があり過ぎ、志士としては学問があり過ぎる」と評された。