- ■ブライトキャリア
- キューバ危機によって核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約、ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約は中国・フランスが反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となった。 軍備拡張が進む中、ソ連もアメリカも財政赤字に苦しみ、消耗していく。アメリカはアメリカ病と呼ばれる経済不振、モラルの低下、犯罪の増加に悩まされ、財政難による軍事拡張の限界と、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。また、1950年代の経済成長と一人勝ちに対し、1960年代には成長が鈍り、日本や西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、相対的に弱体化していた。このため世界通貨ドルの価値が低下し、西側経済は「ドル危機」と呼ばれる状況となった。 ソ連は中央指令型の計画経済の失敗、軍事費の負担から経済が破綻し、共産圏の箍(たが)が緩み始める。チェコスロバキアはプラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、中華人民共和国はアメリカに近づいてソ連と決別、北朝鮮は主体思想を掲げてソ連から離反した。こうして今にいたる共産主義の多極化が起こった。 ニクソンと毛沢東1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉(SALT)を開始、1972年と1979年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。一方、ソ連を牽制すると同時に、東アジアの平和を樹立することを狙い、リチャード・ニクソンが1971年に中華人民共和国を電撃訪問し、東アジアにおける冷戦の機軸であった米中関係が改善、1972年には日本が中華人民共和国と国交正常化した。また、1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。その後1975年4月に南ベトナムの首都であるサイゴンは北ベトナムの手に落ち、ベトナムは完全に赤化され、アメリカは建国以来初の敗北を味わうことになった。 ヨーロッパでは、1969年に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また1972年に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、1975年に欧州安全保障協力会議の成立につながった。しかし核を削減する一方、ソ連は1977年から中距離弾道ミサイルを配備した。これに対抗し、アメリカは1979年12月に中距離核戦力(INF)を西欧に配備すると発表した。また同じ月にソ連がアフガニスタンに侵攻したため、東西はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。 一方アフリカでは、1978年からエチオピアとソマリアの間でオガデン戦争がおこっていたが、エチオピアが1974年の軍事クーデターで社会主義を宣言したため、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカが支援した。アンゴラは1975年の独立直後から3つの武装勢力が対立し内戦となり、これに南アフリカとキューバが介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼となった。 また、ソ連は1970年代に世界的に勢力を伸ばし、統一ベトナム、カンボジア、ラオス、エチオピアの共産主義政府と協力関係を築き、アンゴラ、モザンビーク、南イエメンでは共産主義勢力に加担して紛争に介入した。ほかにビルマ、アルジェリア、コンゴ、イラクといった、アメリカが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。ソ連の影響力は1980年代にかけて第三世界に広がった。 冷戦の多様化―1980年の世界(ワインレッド=ワルシャワ条約機構加盟国、赤=同条約加盟国以外の東側諸国、朱色=共産主義国家以外のソ連よりの諸国、紺=NATO加盟国、青=同加盟国以外の西側諸国、灰色=非同盟諸国、永世中立国、赤い点=左翼ゲリラ運動発生地域、青い点=反共ゲリラ運動発生地域)1978年に成立した共産主義政権を支える為に、1979年にソ連がアフガニスタンを侵攻した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックの西側ボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。またアメリカはアフガニスタンの反共勢力「ムジャヒディン」を援助したため、ソ連はアフガニスタンを完全に制圧することができなかった。侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。 ところで、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別に、もうひとつの勢力があることに気がつき始めた。それはイスラム原理主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してアメリカ大使館が1年余りにわたり占拠されるなど、米ソに新たなる敵をもたらすこととなった。この際、アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した(イーグルクロー作戦)。 このイラン革命によって中東は動揺し、1981年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。米ソはイスラム革命が世界に広がることを恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は8年の長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになるとは誰も予想しなかった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって1988年に泥沼のアフガンから撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。 INFに調印するミハイル・ゴルバチョフとロナルド・レーガン1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、国内体制の改善と大胆な軍縮提案を行い、FX との関係改善に乗り出す。1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約(INF)を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争やアンゴラ内戦が1988年から順次終結、リビアとフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も88年から和平会議が開催された。 ソ連は東欧諸国に対しても改革を促し、1989年にポーランドでポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代、ハンガリー、チェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ住民が西ドイツへ大量脱出した。このため11月には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアでは革命に抵抗したチャウシェスク大統領夫妻が処刑され、共産党政権が崩壊した(東欧革命)。12月、地中海のマルタ島でゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュが会談し、冷戦の終結を宣言した。 一方、ソ連国内ではペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。バルト三国の独立要求が高まり、1988年11月にエストニアが主権宣言、1989年7月にリトアニア共産党がソビエト共産党からの独立を宣言した。1990年3月から6月にかけてに東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、最高会議は独立宣言を採択した。これを受け、ロシアも6月に主権宣言を出し、連邦からの離脱を表明した。ソ連政府はバルト3国に対して軍事行動を起こし、流血の事態となった。 冷戦の要因のひとつであったドイツ問題は、ヨーロッパピクニック事件をきっかけにベルリンの壁が崩れたことにより、統一へ向けた動きが加速化した。1990年3月の選挙で早期統合を目指す諸党派が勝利、ソ連は統一ドイツがNATOに属することに先物取引 を示したが、最終的にNATO帰属を認め、10月に東西ドイツは統一した。また、米ソは1991年7月に第一次戦略兵器削減条約(START)に調印し、ここに名実共に冷戦が終結した。 アメリカは1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻(湾岸危機)を皮切りにアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたソ連の和平案が当時の欧州共同体外相会議で賛成され、翌日にイラクと無条件全面撤退で合意したが、ブッシュ大統領はこれを退けた(数日後、シュワルツコフがソ連案を修正して停戦が決まった)。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後はパレスチナ問題を中心に中東への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったといえる。 ソ連は1991年3月、バルト3国を除く首脳が、連邦の権限を縮小した新連邦の構想に合意した。しかし新連邦条約調印直前の8月、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフを滞在先のクリミアで軟禁状態に置いた。クーデターは、ロシアのボリス・エリツィンの活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。しかし、その結果バルト三国は独立を達成、各構成共和国でも独立にむけた動きが進み、12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長がベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS)の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月25日をもってソ連は解体した(ソ連崩壊)。その後十年間で、東欧・旧ソ連の国々が相次いで資本主義国家となったことも注目できる点である。 冷戦の終結を受け、反共産主義を徹底することを条件にアメリカの援助を受けた軍事独裁政権がその殆どを占めた中南米諸国においても、チリやアルゼンチン、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における橋頭堡として、軍事援助やバーター貿易などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終結しアメリカとの対決の必然性がなくなったロシアにとって戦略的価値が無くなり、援助はストップし経済危機に陥ることとなった。