前向きな転職をしよう

■フォーダブル
冷戦(れいせん、冷たい戦争=Cold War)は、第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義(自由主義)陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義(社会主義)陣営との対立構造。 1945年から1989年まで続き、直接武力衝突する戦争を伴わなかったため、武力衝突を意味する「熱い」戦争に対して、このように呼ばれた(アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年出版の著書のタイトルに使ったことから一般に流布したとされる)。各陣営とも一枚板ではなく動的には反目するなど、イデオロギーを概念とした包括的な大同団結である。 冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を中心とした共産主義の陣営(共産圏)は、東欧に集まっていたことから東側、対するアメリカ合衆国を中心とした資本主義陣営は西側と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。また、対立構造の中で西欧は統合が進み、欧州共同体、欧州連合の結成へ向かった。 主に欧州における対立構造であるが、欧州以外にも、アジア、中東、南米などで、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているが為に経済的、人的な情報の交流が少なく、当時の英国首相ウィンストン・チャーチルは「鉄のカーテンがおろされている」と表現した。 このどちらにも属さない後進国(開発途上国)は、「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営拡大の思惑のなか翻弄されたといわれる。しかしこうした両陣営の思惑を逆手に取り両者を天秤にかけることで多額の援助を引き出す援助外交も活発に行なわれた。またこの二つの対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。 ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったためヤルタからマルタへということも言われる。 冷戦の起源は、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図はヤルタ体制に求められる。主に欧州の分割を扱った、1945年2月のアメリカ・フランクリン・ルーズベルト、ソ連・ヨシフ・スターリン、イギリス・ウィンストン・チャーチルによるヤルタ会談が、戦後の世界の行方を決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。 1946年、モスクワのアメリカ大使館にFX していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共・封じ込め政策」につながった。 戦争によって大きな損害を蒙っていた西欧諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。とくにフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義と自由主義の二つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化した。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。 東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義にいたる多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、ユーゴスラビアとアルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中のパルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、1948年のユーゴ・外為 論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、自主管理社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。 枢軸の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。 ヤルタ会談の焦点のひとつがポーランド問題であった。米英にとって、第二次世界大戦に参戦した直接的理由がナチスのポーランド侵攻であり、ソ連にとって安全保障の観点から自国に友好的な政権がポーランドに樹立されることが望まれていた。いみじくもスターリンがミロヴァン・ジラスに述べたように、ポーランド問題とは、領土問題であると同時に政権問題という位相を含んでいた点で、第二次世界大戦の性格を如実に表象していた。 またポーランドがソ連軍によって解放されたことで、外国為替 のポーランド政治に対して、ソ連の影響力が大きくなる要因となった(敵国を解放した国家が占領において主導権を握るという「イタリア方式」がここでも作用していた)。ヤルタ会談で、米英はスターリンにポーランドでの自由選挙の実施を求め、同意を取り付けたが、スターリンが語ったとされるように、英米にとって「名誉の問題」である一方で、ソ連にとってポーランド問題とは「安全保障上の死活的問題」であったため、スターリンは強硬な姿勢をとった。 ルーズヴェルトの死後大統領に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知り、国連創設会議のため訪米中のソ連の外相ヴャチェスラフ・モロトフに対し抗議した。その後、アメリカとソ連は、対立するようになる。(選挙が決まるまでの過程は、ヤルタ会談の「ポーランド問題」を参照のこと) [編集] ベルリン問題 ドイツの首都ベルリンは、その国土同様に4国分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に島のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における通貨改革への対抗措置として、1948年に西ベルリンへつながる鉄道と道路を封鎖した(ベルリン封鎖)。これに対抗する為、西側連合国は物資の空輸を行なって、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。