- ■Vジョブ
- 当初はサリンによる毒ガス散布が原因とは分からなかった為、警察も消防も無防備のまま現場に飛び込み被害者の救出活動を行った。現場では、東京消防庁の化学災害対応部隊である化学機動中隊が、原因物質の特定に当たったが、当時のガス分析装置にはサリンのデータがインプットされておらず、溶剤のアセトニトリルを検出したという分析結果しか得られなかった。さらに、この分析結果は、「化学物質が原因の災害である」ことを示す貴重な情報であったにもかかわらず、全現場の消防隊に周知されるまで、時間を要した[10]。 当時の警視総監であった井上幸彦により緊急記者会見が開かれ、都内地下鉄構内にて「無差別テロ」発生及びオウム真理教が首謀者であると全面的に発表。同日警視庁内に井上警視総監をトップに対策本部を設置。警視総監自ら事件の総合調整と捜査の総指揮を執る。 対策本部には警視庁刑事部長、刑事部参事官、捜査一課長、捜査一課理事官、捜査一課管理官など主だった刑事部幹部と捜査幹部が招集され警備公安警察の各部長にも招集が掛けけられた。 警察と消防が決死の救出活動を行っている最中、警察の捜査当局も救出活動と平行しつつ現場検証を行った。警視庁鑑識課が現場へ急行し、撒き散らされた液状サリンのある地下鉄内に入って地下鉄車両1本を丸ごと封鎖し現場検証を開始した。 警察官が発見した事件現場の残留物の一部は、すぐさま警視庁科学捜査研究所へ持ち込まれた。鑑定官が検査するとその毒物が有毒神経ガス「サリン」であると判明。この情報がすぐさま関係各所へ伝達されたので、消防や病院は早期の段階でサリンと判定し対NBC兵器医療を開始した。 東京消防庁には事件発生当初、「地下鉄車内で急病人」の通報が複数の駅から寄せられた。次いで「築地駅で爆発」という119番通報と、各駅に出動した救急隊からの「地下鉄車内に異臭」「負傷者多数、応援求む」の報告が殺到したため、司令塔である災害救急情報センターは一時的にパニック状態に陥った。 この事件では特別区(東京23区)に配備されている全ての救急車が出動した他、通常の災害時に行われている災害救急情報センターによる負傷者搬送先病院の選定が機能不全となり、現場では、救急車が来ない、救急車が来ても不用品回収 が遅々として進まない、という状況が見られた。 大災害や戦争の際にも機能できる病院として設計されていた聖路加国際病院は事件認知後、当時の院長であった日野原重明の判断により直ちに当日の全ての外来受診を中止して被害者の受け入れを無制限に実施し、被害者治療の拠点となった[11]。又、済生会中央病院にも救急車で被害者が数十名搬送され、一般外来診療は直ちに中止。その後、警察から検証の為にとの理由で、被害者の救急診療に携わった病院スタッフの白衣などが押収された[12]。虎の門病院も、数名の重症被害者をICU(集中治療室)に緊急入院させ、人工呼吸管理、大量のPAM投与など高度治療を行うことで治療を成功させた。また、翌日の春分の日の休日を含め特別体制で、数百人の軽症被害者の外来診療を行った[13]。 また、聖路加国際病院から「大量のPAMが必要」と連絡を受けた薬品卸会社は、首都圏でのPAMの在庫が病院も含めほとんどなかったことから、西日本の各営業所および病院にあるPAMの在庫を東京に緊急輸送するする為、東海道新幹線に社員を乗せ、停車駅ホームで在庫のPAMを受け取り、輸送する緊急措置が取られた。虎の門病院にも、関西方面からの空輸とパトカー先導の輸送により治療に必要な大量のPAMと硫酸アトロピンが届けられた。有機リン系農薬中毒の治療に必要なPAMの本数は一日2本が標準であるが、サリンの治療には、2時間で2本が標準とされる。 当時サリン中毒は医師にとって未知の症状であったが、信州大学医学部附属病院第三内科(神経内科)教授の柳澤信夫がテレビで被害者の症状を知り、松本サリン事件の被害者の症状に酷似していることに気付き、その対処法と治療法を東京の病院にファックスで伝えたため、適切な治療の助けとなった。一方で、「急病人」「爆発火災」「異臭」という通報で駆けつけた警察官や消防官の多くは、サリンに対してはまったくの無防備のまま、地下鉄駅構内に飛び込み、救急救命活動に当たったため、多数の負傷者を出した[10]。 この事件は、目に見えない毒ガスが地下鉄で同時多発的に撒かれるという状況の把握が非常に困難な災害であり、トリアージを含む現場での応急救護活動や負傷者の搬送、消防・救急隊員などへの二次的被害の防止といった、救急救命活動の多くの問題を浮き彫りにした。 陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の粗大ごみ や機材を提供していた関係上、初期報道の段階でオウムによるサリン攻撃であると直ちに判断。事件発生29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、化学科職種である第101化学防護隊が専門職として初めて実働派遣された。除染を行う範囲が広範囲であったため、同隊を中心とし都内の部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行った[14] また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院及び衛生学校から医官21名及び看護官19名が、警察病院、聖路加国際病院等の8病院に派遣され、硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行った。陸上自衛隊衛生補給処からはPAM2,800セットが送られた[15]。 同事件の迅速かつ的確な対処と、事件二月前に発生した阪神淡路大震災での活躍があったことから、「無用の長物」「平和主義の敵」とあまり評判のよくなかった自衛隊のイメージ改善にも繋がった。 事件の目撃者は地下鉄の入り口が整体師 のようであったと語った。多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度のものはその徴候にもかかわらず医療機関を受診せず仕事に行った。多くのものはそれによって症状を悪化させた。犠牲者のうち何名かは列車の乗客を救助することでサリンの被害を受けた。 被害者は現在も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、地下鉄に乗車することに不安を感じると語る。また、慢性的疲れ目や視力障害を負った被害者も多い。 また、その当時、重度な脳中枢神経障害を負った被害者は未だに、重度な後遺症・神経症状に悩まされ、苦しめられている被害者も数多くいる。 作家の村上春樹による被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』がある。 事件発生から2日後、オウムの活動拠点である山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)の強制捜査が開始される[16]。地下鉄サリン事件へのオウムの関与は、林郁夫(4月8日に別件で逮捕)の供述によって明らかとなっていく。 そして5月16日、地下鉄サリン事件の首謀者として麻原彰晃を逮捕するため、第6サティアン一帯の強制捜査が始まった[17]。現場前線での指揮は山田正治理事官が執った。自衛隊から貸し出しを受けた迷彩仕様の化学防護服に身を包み完全武装した数百名に及ぶ警視庁捜査員、山梨県警捜査員、また警察の中に化学防護服の扱いに慣れている者が少なかったため、応援としてかけつけた自衛官が一斉に上九一色村に入り即座に付近一帯を全面封鎖。付近住民を避難させサティアン内の捜索を開始。信者の確保、証拠品押収にも全力を注いだが、何よりも麻原の確保を最優先に考え麻原逮捕に全力を傾けた。事前の警察への匿名による密告情報では『麻原はサティアン内の中二階に引き篭もっている』ということだったのでサティアン内へ捜査員を潜入させ内部の重点捜索を行った。捜索から数時間後、事前の密告情報による中二階は存在しないことが判明し、捜査撹乱を狙った密告であったと判断した山田に焦りの色が見え始めた頃、サティアン内の屋根裏に不審人物が横たわっているとの報告が入る。この不審人物が麻原であった[18]。捜査員が踏み込んだ際は逃亡する気配すら無く横たわったままほとんど身動きしなかったので重度の身体障害があるのかとも思われたが、現場へ赴いた山田が「麻原か?」と尋ねると「…はい」と弱々しく答え自認した為その場から表へ出し、9時45分緊急逮捕した。数名の武装捜査員によりサティアンから出された麻原は警察側の連れてきた医師によって身体に異常が無いか調べられた後、特に怪我も無く異常無しと診断されたのでそのまま警察車両で護送された[19] 。 こうして麻原は逮捕されたが、これら事件に関わったとされる最重要容疑者高橋克也・菊地直子が未だ逃亡中であり警察庁は2名を全国指名手配し今現在も全国中の警察による懸命の捜索が行われている。