- ■パソナテック
- 一方、貨物の「国鉄離れ」が進みトラック輸送へのシフトが加速した結果、接続する私鉄の貨物も減収することとなり、地方の中小私鉄で貨物を主体に収益を上げていた会社は続々と赤字転落に陥り、少なくない数の路線・会社が廃止・解散に追い込まれた。 さらには、労働争議に積極的ではない組織の構成員に対して業務を妨害する、危害を加えるといった悪質な行動も散見された。挙句には運用できないようあらかじめ車両の部品を取り外してしまう、運転機器を破壊してしまうという行為まで実行された。 結局、行き過ぎた順法闘争は国民の反感を買った一方で経営面では特に貨物輸送に打撃を与える結果に終わり、中曽根康弘首相による国鉄分割民営化という形で国鉄労働者を襲い、バブル崩壊後は国鉄労働者だけでなく、一般企業におけるリストラでの地方労働委員会による救済命令逃れの手本にもなった。 ボイコット(英:boycott)とは労働者が自社製品の購買を控えるように訴え、使用者に経済的打撃を与え、自らの団体目的達成を目指す行為である。「不買運動」ともいう。原則として合法であるが、取引先に不買を働きかける二次的不買運動は違法とされている。詳しくはボイコットのページを参照。国鉄の順法闘争は逆に国鉄へのボイコットを呼んでしまう皮肉な結果となった。 スターリニズム(英:Stalinism、スターリン主義)とは、20世紀なかごろのソビエト連邦(ロシア)の指導者ヨシフ・スターリンの発想と実践の総称。またはそれに通じる考え・実践形態・実践結果としての政治的 ・ 経済体制の総体を指す。それは、ロシア革命と内戦後に発生した特権的官僚と、その権益を防衛する秘密警察の支配を背景にして「絶対的な独裁者」を確立した社会体制である。それゆえ全体主義とデザイン会社 に扱われる傾向が強い。 スターリンは自ら「レーニンの最も忠実な使徒」を自称し、 その支配イデオロギーを「マルクス・レーニン主義」と命名した。また、レーニン死後、彼を神格化することで自らの個人崇拝をも推奨した。 「スターリニズム」(あるいはスターリニスト)は、非スターリン主義の左翼にとっては、「官僚主義」、「専制的な"自称社会主義国家"の崇拝者」、「独善的なセクト主義」、「個人崇拝」、「社会主義革命を実質的に放棄した日和見主義」、「世界革命を放棄した一国主義」などを指す蔑視語である。スターリン、歴代ソ連邦の政権およびコミンテルン系譜の世界各国の共産党は「スターリニズム(スターリン主義)」を標榜したことはなく、トロツキーおよびトロツキズムの支持者(トロツキスト)によってはじめて規定された呼称・用語および概念である(後のローザ・ルクセンブルクの信奉者を含む)。これらの批判はのちにトロツキズム運動、とりわけスターリン死後のスターリン批判の後のコミンテルン系譜の共産党運動の外における「ニュー・レフト」(新左翼)運動の新たな広がりを作り出し、日本においては反スターリン主義という傾向をも生み出す。 スターリニズムの最大の特徴は、スターリン自身が提唱した「世界革命を経なくても(ロシア)一国による社会主義建設が可能である」(一国社会主義論)というテーゼだろう。レーニン、トロツキーをはじめロシア革命期のボルシェビキの指導部は一致した見解であり大前提として「一国による革命と国際革命-世界革命の結合なくして資本家の搾取を廃絶する社会主義体制の建設と確立は不可能である」(世界革命論)を共通の認識にしていた。それは第一インターナショナル以来のマルクス主義の初歩の原則であった、といえる。 ロシア革命を成就させ、「看護師 求人 干渉戦争」に勝利したソビエト政権だったが、レーニン、トロツキーらが展望したヨーロッパ革命はドイツをはじめすべての国で敗北してしまう。また、ソビエト国内においても干渉戦争と「反革命」勢力との内戦によって多くの人命が失われ、国土が荒廃した結果、民衆の革命への熱意は低下する。1924年のレーニンの死去にともなって当時ソ連邦共産党書記長に就任したスターリンは、疲弊したロシア民衆と共産党内の意識を背景に「世界革命がなくとも社会主義は建設できる」と打ち出し、その権力を利用して「レーニン記念入党運動」と称して出世志向の者を大量に党員に採用することで党内で多数派を形成し、トロツキーら革命時のボルシェビキ指導部を追放する。党員の大量採用による多数派形成は、ボルシェビキ-ロシア共産党にとっても「意識的な共産主義者の党」だったあり方からの極端な転換である。 また、スターリンは、ソ連邦共産党の権威を背景にコミンテルンにも君臨し、各国の共産党の左派的な部分を「トロツキスト」として追放する。以後、コミンテルンは「世界革命路線」を実質放棄した「ソ連邦防衛のための道具」とされ、「各国革命運動の利益」よりも「ソ連邦の利益」が世界各国の共産党にとって優先された。 1934年にソ連共産党党政治局員キーロフが何者かに暗殺される。スターリンは、この事件を「トロツキー一派の仕業」と決めつけ(でっち上げであることは確定している)、「社会主義の建設が進めば進むほど、帝国主義に援助された"内部の敵"の反抗も激烈になる」(いわゆる「階級闘争激化論」)というテーゼをもって、1936年に本格的に「大粛清」を開始する。スターリンは、自らに反対する者、あるいは抹殺してしまいたい者に対して「トロツキスト」というレッテルを多用した。ここで言う「トロツキスト」とは「ソ連邦の破壊を目論むトロツキーを頭目とする反革命分子で帝国主義の手先の群れ」あるいは「ファシストの第五列」などと定義されたが、実際は粛清された多くの者はトロツキーあるいはトロツキーの指導する「左翼反対派」の組織(のちに第四インターナショナルを形成する)とは無関係であった。このレッテルとしての「トロツキスト」という用語は、「スパイ挑発者」あるいは「左翼を装った反革命」を意味するものとして、世界各国の共産党によって第二次大戦後も長らく使用されることになる。大粛清は、共産党内からソビエト赤軍、ソ連邦に亡命していた各国の共産党・コミンテルン活動家、そしてソビエト社会全般へとおよび、その犠牲者は最大約700万人にのぼるとも推定される。 「マルクス主義」に「民族(排外)主義」あるいは「国家主義」の概念を持ち込んだのも、スターリンの"功績"と言える。トロツキーをはじめ、革命期のボルシェビキ指導部の多くがユダヤ人であったが、スターリンは「反ユダヤ主義宣伝」によって、彼らの追放を容易にした。また、「一国社会主義建設論」自体も、「ロシア民族の優位性」という宣伝によって鼓舞した側面もある。スターリンが、その「民族主義」を最も鼓舞したのは、ナチス・ドイツによるソ連邦侵攻の時期であろう。スターリンは、その反撃戦を「大祖国戦争」(露名 Великая Отечественная Война 英訳 Great Patriotic War)と名付け、「国際労働者階級の利益」などのそれまでのマルクス主義の命題を投げ捨てて「ロシア民族の命運を賭けた決戦」として戦争を鼓舞した。また、禁止したはずのロシア正教を復活させて、「ロシア・アイデンティティー」を極限まで扇動した。 この時期の各国の家庭教師 の反ファシズム・レジスタンス戦争は、フランス共産党の「インターナショナリズムと愛国主義の融合」というスローガンに代表されるように、民族主義の色彩を濃くしていた。スターリンは1943年には、「反ファッショ戦争」において「米英帝国主義との協力関係の阻害物」として、世界革命路線を最終的に放棄した証にコミンテルンを解散させる。以後、コミンテルン系譜の共産党の"スターリニズム"の特徴として「プロレタリア国際主義」よりも「民族主義」を強調する綱領・方針が挙げられる(日本共産党においては「民主民族統一戦線」という綱領、あるいは「真の愛国者の党」という宣伝に表現されている)。 スターリンは、ソビエト政権が干渉戦争と内戦の終了とともに開始した「新経済政策」(いわゆるNEP)から転換して1928年に第一次五ヶ年計画を開始する。それは西側帝国主義にハイペースで追いつこうとする産業化政策であり、軍事力を高めることを目標とし、また、産業化を後方で支援するための農業の集団化(コルホーズ)をセットとした。そこでは、労働者への極端なノルマを課した成果主義(スタハノフ運動)と「富農(クラーク)の撲滅」が叫ばれた。発電所やダム建設などの巨大プロジェクトによって労働者は動員され、強制収容所から「(作り出された)囚人」が無報酬で働き犠牲になった。また、農作物は強制的に徴発され、広範な飢餓地帯(とりわけウクライナ)と大量の死者を生み出すことになる。これらの政策によりソ連の国力は第二次世界大戦前までには西欧列強と肩を並べるまで成長し、アメリカ、ドイツ、イギリスと同等の大国としての地位を得た。 現在では、重工業重視による「テレマーケティング 主義」に基づく「社会主義経済建設」の展望も、"スターリニズム"の系譜を引いている思考および志向と言うこともできるだろう。 ボルシェビキは、元々野次すらも議事録に残し、政策・方針によっては分派活動の形成を容認する党内民主主義の度合いの強い組織だった。ロシア内戦期に、指導部の強化を目的にして分派形成は禁止されたが、少なくともレーニン、トロツキーらにとっては、「内戦期という非常事態における一時的措置」として位置づけられていた。これをスターリンは、レーニン死後、「党は実践集団であって、討論クラブではない」という命題によって、「一枚岩の民主集中制の絶対原則」として分派形成を禁止する。この「原則」が、「指導部批判=敵対者」と規定される土壌を作り出すことになる。各国の共産党も、例外なくこの「原則」を倣っていくことになるが、この「絶対原則」によって、党内討議・党内民主主義(批判の自由)よりも指導部の「指令」「指導」が絶対化される官僚主義が各国の共産党を共通して蝕んだ大きな根拠となっていく。 あるいは、「真理は一つであり、その真理に立つ労働者階級の前衛党は各国に一つでしかあり得ない」または「「統一した党は労働者階級と革命の司令部であり、司令部がいくつもあったら命令指揮系統が混乱する」とする一国一前衛党論は、自派以外の共産主義党派および共産主義者を排撃し、民衆の運動は自派によって指導されなければならない、とする独善主義の論理として作用する。それは「共産党主導でなければ革命は起きない」あるいは「大衆運動・(労働組合などの)大衆組織は共産党を拡大するために存在する」「共産党の指導外の運動は破壊してもよい」というような思考をもたらし、「大衆運動の利益」よりも「共産党の利益」を優先する体質を形成してきたと言える。